羊の木を見てシュレディンガーの猫を思い出したのはなぜなのか考えてみる話と感想箇条書き

ココからは若干考察チックというか映画見る前に見ないことをお勧めする内容です。私の何となく根拠もなく思ったことであり評判でも評価でも考察でも何でもないです。何となーく思ったことのはなし。纏まってない。自分でも読んでてよく分からない。読後感といえば何か答えが見つかるような爽快さはないし、説明は明瞭さに欠けるし、論理性は著しくないんですけど。羊の木を考えるにあたってこういうことを思った人がいるよということの証明でしかないんですけど。

 

この映画を見て私シュレディンガーの猫を思い出したんですよね。量子力学の思考実験の話。

名前はわりと有名ですよね、私は正直理解しきってはいないという自覚があるんですけど。

こんな感じ↓

シュレディンガーの猫の話の流れを分かりやすく解説。量子の世界の不可思議な話 | アタリマエ!

別に量子力学の世界でのうんぬんを羊の木につなげてなんかすごい考察を展開しようという訳じゃないんです。なんとなーくシュレディンガーの猫が思い出されたってだけです。でも人が肌で感じ取ったものはあながち間違っていないとクリーニング屋さんに学んだのでなんでそう思ったのかなということを追究して良ければいいかなと。いまキーボード打ってますけど結論はでていません。

シュレディンガーの猫の話をするとですね。

2つの世界があります。

記事を読んだり、水飲んだり、ベッドで寝たりする私たちの生きてるマクロの世界。

そして肉眼ではとても観測できないちいさなちいさな世界、原子やら粒子のミクロ(粒子)の世界。

今私たちが生きている世界と量子力学が扱うミクロの世界はルールが違う、私たちの常識では起こりえないことが起こっている。

ミクロの世界は対象が複数の状態を持ちうるという話で、全てのものは観測した時に状態がどれか一つに収束する、確立するよって話らしい。

そんなのよくわからんというかイミフです。状態が複数って…寝てたら寝てるし起きてたら起きてます。生きてた生きてるし死んでたら死んでます。そんな状態が重なり合って複数存在してるってどういうこと…?でもミクロの世界はそういう結論を出した訳です。なんてったってミクロの世界の話だもん。そちらさんの常識なんか当てはめないで。ってこういう訳です。でも量子学ではこうなんだよって言われたら一般ピーポーは「なるへそー」ってなんとなくわかるような気になります。そういうことにしておいちゃいますよね。だって異論を唱えようにもなんかうまく言えないし。

そこでその量子学の考え方に異を唱えた人がいました。そんなにいうならミクロの世界のことをマクロの世界で変換して考えてみようぜそしたらミクロの奴らの言うてることがおかしいって分かりやすいやろ。ってそういう感じです(雑)そのためのシュレディンガーの猫という実験らしい。

 

実験について

猫は50%の確率で崩壊する放射性原子(つまり量子の世界ミクロのこと)と崩壊を感知したら青酸ガスを放出するという物騒な装置の入った箱に入れられています。青酸ガスが出たら猫は死にます。

ミクロの世界は私たちの世界の法則とは違うので崩壊が50%の確率ということを量子の世界の言い方をするなら「崩壊する状態と崩壊しない状態が1:1で重なり合ってる」ということらしい。現実の世界じゃそんな重なり合って存在してるとか何言ってんの?はぁ?って感じですがミクロの世界の確率解釈はこうらしい。むつかしいね…。

まぁ、それでですね猫は死んでいるのか生きているのか。

それは中身を開けて確認しないといけないけど開ける前は死んでいるのか生きているのか分からない。ただ、私たちの普通の感覚で言えばどっちかは分からないけど生きているか死んでいるかのどっちかである。0か1か。ただ分からないだけでもうすでに箱の中では決まっている。

でもミクロの世界の言うことを信じて「複数の状態が重なり合うことを許してしまう」なら原子の崩壊は1:1の状態で重なり合っててそれに連動して猫の生と死も1:1の確率であると言える。つまり箱を開ける前の猫は「生きていることと死んでいることの状態を持っている猫」と言えるわけです。ミクロの世界の話をマクロの世界へうまいこと持ってきて考えているわけです。

でも、常識的に考えてそんなわけないでしょと。JKだよJK。

生きてるか死んでるかどっちかでしょ。生きているか死んでいるか分からないだけでそんな奇妙なーーどちらの要素も備えた猫がいるわけない。でも量子力学の言ってるのはこういうこと。そして箱を開けて観測したときに猫は生きているか死んでいるかが確立する。どちらか一つに収束するという訳です。観測という行為を経て状態が変化してる。マクロの世界で言えば観測する前にすでに事は決まっているわけです。箱の中で死んだか生きているか。観測しようとしまいと中での決着はついている。でも量子学は観測という行為によって一つに決まる。観測するという行為が実験に干渉している。ってことらしいよ。

量子力学の言ってたその前提(重なり合う状態を許すこと)っておかしいんじゃ・・・?」そう思ってもらうことがシュレディンガーの猫という思考実験の目的です。

私もなんか入力しながらやっと分かってきました。

 

話を戻すとなんで羊の木を見てそんなこと思ったのかなーという事なんですよ。

6人は箱。そして観測者として月末くんにかさなったのかなと。

元殺人犯という肩書。それが付けば「また、この人は人を殺めるんじゃないか」とそういう不安で見るわけでそれは懸念でもあり、可能性でもあるわけです。

最初に港で遺体が揚がった時に月末はその場にいた杉山(北村一輝)を見つけて「…(もしかしてこの人)」と思うわけです。

6人にはいつも「今も人殺しなのか、それとも罪を反省した魚深市のただの住人なのか」という月末の不安交じりの疑問がーーそして映画を見てる人にも同様の疑問「こいつは何かしでかすのだろうか。どっちなんだ」というどこか期待交じりの疑問がかけられているわけです。

それはシュレディンガーの猫のようにどちらの可能性も有してる「重なり合った状態なんじゃないか」と。今回の羊の木のキャッチコピーは「信じるか。疑うか。」ですけど。そのどっちでもない状態で存在してる箱の中身。

ただ、量子学のミクロの話ではなくて肉眼で見れる魚深という町の話ですからどちらか重なりあってるんじゃなくてどっちかなんです。

「人殺しか人殺しでないか」

終盤、観客はそのどちらかの答えを知っている。でも月末は知らない。見ていないから、箱を開いて観測していないから。だからやっぱり「どっちの状態も持ってる重なってる状態」ということなんですよ。今、矛盾したこと言ってるなという自覚はあるんですよ(笑)でも「何となく思ったこと」ゆえの緩さだと思って目を瞑って頂けると助かり候。

 

さて観客はこたえを知ってても月末が観測したときにどちらかに定まるんですよ。

私は月末はなんらかの作用を持つ観測者だったのかなぁって思うんですよ。1:1の確率を1:1.5とか1:5とかに変えてしまうような。

あぁ、でもな~月末でなくてもそうだったのかもしれない。誰か別の、後輩職員でもよかったのかな。月末はなんの影響も与えてなくてただそこにあって観測する人だったのかも。普通の人だもん。

(というかこうなるとのろろ様も観測者だった気もしてきますねぇ。宮越か月末か。

あぁ、観測者って「複数の重なり合う状態」をゆるさないひとなのかも。観測する→どちらか一方に決定する→重なり合う状態は必ず解消する→どっちつかずを許容しない。そういう意味で裁く人っぽいですね)

 

実は見終わった後隣で見てた母が「錦戸君じゃなくて松田龍平主演だったね」って言ったんですよね。私はなるほどなーそういうとり方もあるのかと少し納得したんですけど主人公はやっぱり月末だったなとおもうんですよね。

 

普通の人が何かと出会って考えて巻き込まれて、疑って信じたくてそれでこれからも生きていく。そういう普通の人間の強かさというか強さみたいなものには希望を持てましたよね。これからも普通に生きていくことに希望を持てるというか。

 

以下箇条書きに感想

・宮越のソレを見た瞬間(あぁ、サイコパスかぁ)ってカテゴライズした瞬間になぜかすっごい後悔したんですよね。安易にそういってしまった自分のつまらなさに若干嫌気がさしました。なんかそんな簡単な物じゃない。

・優香さんのほくろ(ほくろ)

・みかんの白い奴取ってる時のあのおしろいの化粧の感じたまらんくない?たまに顔が白すぎるマダムいるじゃないですか。あの感じ。でも色気が。おしろいのむせかえるような粉っぽくて甘い匂いがしそう。

・月末のカーディガン姿すごい、よかったよね…。減塩味噌…。

・水澤さんの入り具合すご…

・のろろーのろろって言いながらろろのーってたまに言ってませんでした?

・宮越…宮越君…

羊の木という作品を今映画館で絶対見た方がいいその理由

羊の木という映画を見て来た。

そんな訳で文章を書きます。何故かって書かなきゃやってられないからです。なんなんだこの映画。

 

書くからには誰かに見てもらう事を想定するわけで、それは未来の自分でもいいんだけど。今回は「羊の木?あぁ、漫画読んだ」「桐島部活やめるってよの監督の最新作だよねー?見ようか迷ってるんだよー」「錦戸くん主演のやつ?」的層にお伝えしたい。「最近邦画全然見てないわー」でもいい。

 

もうなんでもいい、つまりまだ羊の木を見てない人

 

私は貴方がうらやましいです。私、こんなに初見で見たいと願ってるのにできないんですよ!いいなぁ、もう一度ポップコーン片手に錦戸くんのベース楽しみだなぁーなんて呑気に思ってた頃に戻りたい。もう一度アレ味わいたい!いいなぁいいいなぁ!!

 

(深呼吸)

 


さてこの文章の要旨は〈映画館で今こそ羊の木を見てくれマジで頼む、と一言で済む内容を長々とあなたに向けて綴る〉。そういう内容です。




 

ちなみにネタバレしてるっぽい考察的な何かも書いたよ。読後感といえば何か答えが見つかるような爽快さはないし、説明は明瞭さに欠けるし、論理性は著しくないんですけど。羊の木を考えるにあたってこういうことを思った人がいるよというやつ。書き終えた後なぜか量子力学の勉強をしていました。なぜ。

映画見終えた人は良ければどうぞ。

 

 

私が映画館で見たほうがいいと言う根拠の80%は『音』にあります。この映画の流れる劇場にいるとその空間それ自体が真っ黒な箱に入れられているようなそんな感覚にさせられます。真っ黒なその箱の中に入れられて、ポップコーンなりコーラなりを持ち込んで目の前の画面を見る。

なんの説明もないまま月末という男が妙な六人と出会うシーンを見せつけられる。淡々と、刻々と。でもふつふつとぼこぼこと煮立って底から気体を吐き出すヤカンみたいに不安が湧いてくる。

 

そして『音』がする。なにこれ。

 

その頃にはもう自分が箱に入れられているなんて忘れていて、でも『音』が言いしれぬ何かが自分の身体を鼓膜を揺らすのでハッとする。

なんだこれは。

ここは、そうだ映画館で――自分は。

でも、ふとまた越してくる6人を見つめる月末に私はいつの間にか寄り添っている。ここは魚深市だ。人もいいし、魚もうまい魚深市。潮風の匂いと水色の空と少し灰色がかった日本海、 そしてカモメの鳴き声と。6人の人間。自分の世界の範囲にはいない人間たち。

そう見えるような気もするしそんな風には見えない気もするし。どっちなんだろうーー。その好奇心のまま彼らの中を覗き込む。

そうして映画の中に入り込もうとーーするのに真っ黒い箱に響く『音』がそれの邪魔をする。聴覚という機能、まごうことなき自分の耳という器官が拾って脳に引っかかるからどうしても「地元の映画館で錦戸亮主演の映画を見ている私」がひゅっと顔を出す。

 

ああもうやめてよ、いまいいところなのに。

 

耳という器官は、目なんかとは違って塞いだところで完全に無音にすることはできない。そういう意味で自分の想うとおりにならないレアな部位だと思っているんですけど。目は瞑れば大体のものは見えなくなるし(光量の程度くらいは見えるけど)瞑らなくても視線を動かすなり、首を動かせば見えないもの見たいものを選べるけど耳はそうはいかない。周囲にあるものの存在を否応なしに受け入れなくてはならない。『音』のせいで気持ちよく完全に入り込めないまま、まだらに「私」という視点も顕れつつ鑑賞する。映画は進み、巻き込み、絡んで、重なって、成長していく。

 

 ちなみにこの映画(少なくとも私には)笑えるシーンがある。口角を上げる程度なのか、ふふっと息を吐く程度なのかハハッと声を出す程度なのかはまぁ人によるのだろうけど。この映画、すっげー乱雑に言ってしまうならシリアスがずっと続く。でも時折、数回可笑しくなって笑ってしまう瞬間がある。ひりひりとした緊張感が傍でずぅっと息をひそめていて、映画の中の人たちは懸命に誠実に素直に生きているんだけど『音』で「私」を思い出す私にはふとした時になんだか可笑しい。いつだって不安と期待と緊張はあるのにある瞬間可笑さが達して、口角が上がる。

 

話を戻して、さっきから言ってる『音』について。見てない方は「どんな音やねん」と「訳わかんないんだけど!」「はぁ?」と思われるかもしれない。

見た方は「あぁ『音』ね」と分かってもらえると思う。

 

そう、なんなんだろうあれ。

 

『音』ではあるのだけどBGMにもならなければ聞き流せないそういうもの。物語の雰囲気を邪魔してはいない、してはいないんだけど、絶妙に気にかかる。

なんかこう、粗いやすりでコットン撫でたら引っかかる感じ。引っかかって動きが止まることはないんだけど、繊維が引っかかって残っていくような。…ちょっと分かりづらい。うまく言えないんだけどとりあえず見過ごせない程度のものと思ってほしい。

でも物語の邪魔ではない。

私は不愉快ではなかったんだけどもしかしたらそう思う人もいるのかなとも思う。自分が映画に気持ちよく入り込むぐらいになると邪魔。そういう絶妙な度合い。それが不気味なんだけど。

そしてこの『音』は多分映画館という施設で聞かないと最大限の機能を発揮しないような気がする。いや、DVDでも聞こえるんだろうけど、でも、これは家じゃなくて映画館で見なきゃ。自分の安心できるスペースで見るのはちょっとまた違う映画。

 

 

もし羊の木という映画が気になってるなら映画館で見よう、これはもうほんとに。

(今見れなくても最近はドリパスとかで一年後映画館で見れたりするけどランキング一位?上位かな?にならないと上映決定しないし、配給会社の関連とかあるしさぁ主演がギターも弾けてハンサムで睫毛長くて子犬っぽさを併せ持って演技がやばい上手いスーパーアイドルだから上映決定してもファン(私含む)がいち早くチケット取っちゃうしですね)

今なら映画館のカウンター行って「羊の木大人一枚(貴方がこどもならこども1枚)」と幾ばくかの貨幣を差し出せば映画館のスクリーンで見れて聞けて鑑賞後に椅子で「ほぅ…」とため息を吐くことができるわけです!すごい!なんということか!なんということでしょう!なんということだ!!


テンション上がってまいりました。でもそろそろ終わります。

ここまでで私の文章が何かしら影響したのかまぁ、してなくてもいいんだけど映画館いってみよーと思ってくれたなら嬉しいです。ていうか読んでくれる人がいただけでうれしい。読んでくれてありがとうございました。

 

 

とりあえず羊の木という作品を映画館で見て。面白さというかなんかもはや感覚的には興奮するくらいなんですけどあの作品映画館で体感できる快感はなんか筆舌に尽くしがたいくらいやばい。

 

 追記

そういや最初に話した劇場が黒い箱みたいな感覚にさせられるって話なんですけど、私たちが入った黒い箱を監督が掌に置いてつついたりして音を出しているんじゃないかと思ったりしたんですよね。「なに気持ちよく作品に入ろうとしてるの君」みたいな(笑)なんかこう、うまく言えないんですけど。